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鬼子母神

鬼子母神が子供の神様と言われるのは

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 鬼子母神は、仏教の神様です。日本の神様ではありません。

 鬼子母神にまつわるお話です。

お釈迦さま在世のとき、子供が500人とも1,000人ともいた、と言われていた女性がいました。

でも、その女性は、夜な夜な、人間の子供を連れさらっていては、食べていた、とんでもない女性、夜叉でした、

そのため、町の人たちがお釈迦さまに相談したところ、お釈迦さまは一計を案じて、その夜叉の一番下の子供を神隠ししました。

すると、夜叉は、その子供を懸命に探しても見つからなかったために、お釈迦さまのところに、相談に行きました。

 「一番下の子供が見つかりません、どうなってしまったのでしょうか」

 それを聞いた、お釈迦さまは、

 「お前には、500人とも1,000人とも、たくさん子供がいるではないか、一人ぐらい居なくても良いではないか」

 と言うと、夜叉は、

 「いえ、私にとっては大切な子供です」

 と答えたので、お釈迦さまは、

 「では、お前は夜な夜な、人間の子供を連れ去っては食べているが、その親の気持ちを考えたことはないのか」

 と言われて、夜叉は初めて、自分はとんでもないことをしていた、と気づきました。

以後、改悛して、お釈迦さまを守る神になった、と言うことです。

このように、子どもととても縁があったので、鬼子母神は子供の神様をなった、と言うことです。

白い砂と石

法華寺の鬼子母神縁起

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日蓮宗(法華寺)が鬼子母神様を祀るのは

日蓮宗の所依する、経典は「妙法蓮華経(略して法華経)」です。

法華経には、簡単に言いますと、お釈迦さまの物語が書かれているのです。

その内容です。

法華経は、第1章(序品)から第28章(普賢菩薩勧発品)まで、あります。

その第26章(陀羅尼品)に、鬼子母神さんが登場いたします。

その陀羅尼品の中で、鬼子母神さんが、お釈迦さまに、

次のような誓いを立てるのです。

 私は、法華経の行者を守ります

 と。

そのため、私たち日蓮宗は、法華経を所依の経典としていますので、法華経の中で、お釈迦さんの守護神と誓いを立てている、鬼子母神さんも、お祀りしているのです。

​法華寺の鬼子母神さんは、江戸時代初期(1618年)、法華寺が現在地に建立されてから、間もなくして、神瀧山山頂に祀られるようになりました。

法華寺からちょうど、裏鬼門にあたる位置です。法華寺から、神瀧山山頂の鬼子母神本殿まで、徒歩で900メートルほど登った所にあります。

神瀧山山頂まで、山道を登って行く中間地点に、神瀧の滝があります。この滝は、滝修行の場として有名です。

平成15年(2003年)、現住職が、法華寺に来たとき、鬼子母神山の伝承について、次のように聞いていました。

   江戸の雑司ヶ谷に祀られていた鬼子母神さんが、難を逃れるために京都

  に運ばれたが、京都でも難に遭い、法華寺に来て祀られることになった

 と言うことでした。

その後、令和2年(2020年)秋、雑司ヶ谷で、タウン誌の執筆活動をされている方が夫婦で来寺されました。

   但馬の法華寺に行きなさい

 との霊示があったとのことでした。

雑司ヶ谷の鬼子母神さんについて、様々な話を伺う機会となり、点と点が繋がり始め、鬼子母神さんの伝承が、少しずつ真実の姿に近づき始めました。

 江戸初期、1657年、江戸は明暦の大火で、市街地の大半を消失してしまいます。1664年 雑司ヶ谷の鬼子母神堂が再建された、と記録がありますので、この明暦の大火で、雑司ヶ谷の鬼子母神さんも難に遭われたことは事実、と思われます。

 この大火の中で、鬼子母神さんのご尊像が難に遭わないように運び出されたことは想像に難くありません。

 その後、ご尊像が、何かの縁で、京都にまで運び出されました。

 しかし、その京都でも、明暦の大火から5年後、1662年に、寛文近江若狭地震が発生いたしました。

 京都、方広寺の大仏(奈良の大仏よりも大きい)も、この地震で損壊してしまうほどの大地震でした。

 そのため、鬼子母神さんのご尊像は再び難を逃れるために、最終的に、縁があって但馬の法華寺に安住の地を見つけた、と言うことです。

 法華寺に縁があった、幾つかの理由です。

1) この地域は、キリスト教を受け入れる土地柄であったと言うこと

  法華寺から車で数十分で、京都府宮津市です。宮津市は、明智光秀の娘・細川ガラシャが匿われた土地です。本能寺の変のとき、明智光秀は実娘・細川ガラシャの夫である、細川忠興に援助を求めたのです。

 細川ガラシャという名前の通り、キリスト教を信仰していました。細川ガラシャを匿った宮津は、キリスト教を受け入れる土地柄であったということです。

 教科書の挿絵で登場する、フランシスコ・ザビエルの絵は、大阪・茨城市の隠れキリシタンの家から、大正時代に発見されました。この地域は、戦国時代末期、キリシタン大名・高山右近の領地でした。この家の山の向こうはすぐ京都府です。

 このように、現宮津市付近の地域は、戦国時代末期、キリスト教を受け入れる地域であったことです。

2)鬼子母神さんのご尊像には、赤ちゃんを抱いたご尊像があります。

 江戸時代初期、1612年、キリスト教禁止令が出た後、キリシタン達は、隠れキリシタンとなり、表立って、その信仰を表すことはできませんでした。

 でも、表でわからない方法で、その信仰を守り通そうとしたのです。

 聖母マリア像は子供を抱いています。鬼子母神さんにも子供を抱いたご尊像があります。

 鬼子母神さんのご尊像に手を合わせる姿の向こうに、実は、聖母マリアの像を心の中で思い描いていたのではないか、と推測できるのです。

3)法華寺は、法華経を所依の経典として読誦しています。

 その法華経に、仏教の守護神として、鬼子母神さんが出てきます。

 鬼子母神さんのご尊像、実はその後ろに、聖母マリアに仮託して、手を合わせていたのではないか、という推測です。

 点と点がつながり始めました。でも、まだまだ、分からないことがたくさんあります。

 歴史のロマンがありますね。

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